法話集

平等寺住職 丸子孝法


「92ケの元素」


先般ノーベル物理学賞をいただかれた小柴昌俊先生は、世界ではじめてニュートリノ現象の観測に成功されました。先生の説によると、137億年の昔、ニュートリノ現象によってビックバンがおこり、一つの天体が大爆発をおこして、太陽をはじめとする地球や月、火星、水星、木星、金星、土星、多くの星ができたそうです。しかも私達のこの地球には108の元素があり、108の元素があるために、92ケの元素をもつ人間という複雑な生物ができたというのです。私は、この小柴先生の説を知って驚きました。父と母の縁によっていのちを頂きましたが、私達は、地球の92ケの元素をいただいて生きているのです。人間だけではなく、鳥も魚も動物も、いや植物も、いや流れる水や雲さえも、すべては、母なる地球の元素をいただき、父なる太陽からの風にのって運ばれてくる水素や熱や光に守られささえられていたのです。いきているということの事実は、私がいきているのではなく、100パーセント「いのち」が「私を生きている」「あなたを生きている」ことなのです。頭がいいとか悪いとか小さなことです。偉いも偉くないもないのです。「いのち」、その落ちつきどころに落ちつくのが坐禅です。それを、大安心(だいあんじん)というのです。 お釈迦さまは、お悟りを開かれた時に、「我と大地有情同時成道」(われとだいちうじょうどうじどうじょう)と真理をお説きになられました。「私も地球も同じいのちであった。すばらしい、すばらしい」とのべられたのです。愛する心とか、慈しむ心は、ここから発信される心なのです。 今もなお戦争が続き、差別がなくなりません。平等を説き、平和を願われたお釈迦さまの原点に帰る道を共に歩みましょう。


「曲がっていてもキュウリはキュウリ」


みなさまは、家庭農園というものの経験がありますか。鉢植えのトマトやナスビでもいいでしょう。小学校の花壇でヒマワリを育てた経験があるかもしれません。自給自足という程でもなく、営利目的でもない、ただ食卓に一品二品をそえるための小さな農園。土をおこし、種を植え、水をやり、野菜たちに語りかけながら育てるのが家庭農園であります。 私は昨年から住まいのはずれの小さな小さなミニ畑で、野菜を作り始めました。キュウリやトマト、ナスビ、ピーマン、オクラ、ナンキンと、ところせましと植えてみました。さらに、まったくの無農薬で育てようと欲ぱったものですから、これは世話が大変でした。朝のお勤めの後は、毎日、虫との格闘であります。 やっとの思いで、六、七本植えたキュウリの苗に、八十本もの収穫が恵まれました。しかし、その多くは曲がりくねったものばかり。への宇はまだ良いほうで、つの宇やめの宇のものもあります。個性的”というか何ともほほえましい限りです。近頃のスーパーなどに並ぶ厚化粧のワックス野菜や、化学肥科ばかり詰めめ込まれた野菜と比ぺ、なんとおおらかでいきいきとしていることでしょうか。 人の生き方でも、見てくれで生きる生き方と、本音本領で生きる生き方があります。見てくれの良いものを求めている間は結局、自分自身の見てくれに捕らわれているのではないでしょうか。曲がっていても、虫食いでも、それが本物の姿なのだと気がつくことが、その人の生き方の転機となります。 禅の修行を自受用三昧(じじゅようざんまい)と申します。これは、自分が自分を自分すること、つまり本物の人生を歩もうと努力することです。 曲がっていてもキュウリはキュウリ。キュウリはキュウリ曲がっていても…。


「ありのままの命にカンパイ」


「ありのままの命にカンパイ」これは、重度の身体障害者である遠藤 滋さんの命の叫びです。遠藤さんは、東京の世田谷にお住まいですが、重度の身体障害を持って、この世に生まれました。 足で字を書き、立教大学を卒業し、養護学校の先生になった努力と根性の人です。  ところが、障害が重くなって、数年前からはベッドに寝たきりの生活になりました。遠藤 滋さんのもとには多くの若い人々がボランティアとして集まってきます。驚いたことに、その数が今日に至るまで延べ1000名を超えたのです。 その記録映画『えんとこ』が発表されました。重度の身体障害を乗り越えて、めげずに力強く生きようとする遠藤さん。介護のボランティアの光り輝く笑顔。遠藤さんに出会えてよかった、遠藤さんが障害を持っていなかったら、遠藤さんに出会えなかったと涙を流す若人。 ラストシーンは、ボランティアの若い男女にささえられ、まったく動くことの出来ない遠藤さんが青い海に入っていき、一歩一歩踏みしめながら前進する感動のシーンでした。  道元禅師は、生かされている一瞬一瞬の私たちの命が実は仏の御いのちであると教えられました。だから生きることを嫌がっても、生きることを欲張っても、仏の御いのちを失うことになると教えられたのです。 「人間は頂いたものが全部違う。顔も違えば、鼻も目も背丈もみんな違う。違うことが尊いのだ。違うとことが尊いのだ」と心の底から、からだの底から目覚めます。そして遠藤さんは「ありのままの命にカンパイ」と叫びました。欲張らず、嫌がらずありのままの命をいかして生きる。ありのままの命にカンパイ。


「ブナの木の布施」


中村メイコさんのご主人である神津善行(こうづよしゆき)さんは、音楽家であると共に、植物の発している電波を研究して、それを音楽に取り入れている、おもしろい人です。そのために一週間ぐらい山に入るのだそうです。さまざまなコンピューターを持ち込んでの実験ですから、驚くことに五千万円もかかるんだそうです。 山にはブナの木があって、そのブナの木の下に生息している草や木の実験をしてみると、ものすごくおもしろいことがわかります。それは全部の草木が「調和」をとっているということだそうです。全部が調和をとっていて、その中にちょっぴりの花が咲いても、その花が咲くために、その花と一緒に共生していくために、わずかながらの太陽の光を、その花のためにあけてあげるのだそうです。ブナという木は、ふしぎな木です。葉っぱを出したら下に日が当たらないから、葉っぱを出さないで、ぎりぎりいっぱいまで我慢するのだそうです。 ブナの木の葉っぱは、二日くらいで全部緑になってしまう。それは、できるかぎり我慢をして、下にいるいろんなものに、できるだけ太陽の光を分け与えていくためでした。そういう風に生きているのがブナの木だそうです。 私は、この話を聞きながら、道元禅師の「布施というはむさぼらざるなり」というみ教え、つまりむさぼらないことが施しの本当の意味であるというみ教えが、さらに身近なことに感じられました。そして、ブナの木が布施の実践をしていることを学びました。 お坊さんに対する謝礼や報酬だけが布施ではありません。ブナの木のように、周りにいる人々に、できるかぎりの思いやりの心をなげかけていく、心豊かな生活をおくりたいものです。


「成道の釈迦」


「お釈迦さまはどんなお姿だったのだろうか。会えるものなら会ってみたい」と願っていた私は、28歳の時、恩師からお釈迦さまの似顔絵を頂いたのです。  それは、大英博物館に秘蔵されている生前中に写生されたお顔の絵の複写でした。  お釈迦さまがお悟りをひらかれ、その6年後はじめて、お生まれになった釈迦国を訪ねられたとき、父である王が、画家に命じて写生させたという絵です。そのお顔は、まことに聖者そのものでした。  その絵を頂いたとき、私の寺では、坐禅堂の建設の最中でした。ぜひ坐禅堂にお祀りしたいと、近くの著名な絵の先生に、その絵を元にお釈迦さまが成道された時の絵を描いて頂くことを考えました。  しかし、さまざまな理由でその先生にお願いすることができなくなり、一念発起し私は画材道具一式と百号キャンパスを買い求め、生まれて初めて油絵に挑戦することになったのです。  お釈迦さまをお慕いしながらの50日。何とか畳1枚半の絵が完成し、私はその絵を「成道の釈迦」と名付けました。  その後こんな二つの体験をしました。  今はなき、仏教学者の最高峰といわれた中村元先生にお会いしたときに、お釈迦さまはどんな人であったかとたずねると「顔色の清らかな身のうるわしい方であった、と古い文献にあります。」と即座にお答えになりました。  また、宮沢賢治の生家を訪ねたとき、私が手本とした大英博物館の絵を賢治が大事にしていたことを知り、この二つのことに、「成道の釈迦」を描き上げた私にはなんとも嬉しく感じました。  日曜の朝に坐禅会を始めて満30年になります。遥かなる2500年前のお釈迦さまを描かせて頂いた「成道の釈迦」。太陽の輝きを背に手と足を組み、すべてを見守ってくださるお釈迦さまが坐禅会の私たちを導いてくださっていると感じます。  命の深さを学び、限りなく尊い自己を発見する。このひたすらに尊い坐禅を、お釈迦さまの成道に想いをよせ、一日一日につとめましょう。


「彼岸はあなたのあしもと」


「彼岸」と申しますと、現実の迷いの世界の向こう岸にある理想の悟りの世界だと思われています。しかし、道元禅師さまは、彼岸が遠く離れた向こう岸の世界であるとは教えていません。現実の修行の世界と悟りの世界は一つであり、大事なのは、修行が本物かどうかだと教えて下さるのです。 本物の修行、本物の人生、それは、どういうものなのでしょうか。 奈良県明日香(あすか)村にお住まいのKさんは、大変な読書好きです。この間、お邪魔したときも読書の真っ最中でした。そこで私が何気なく手にした名言集の中に、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク教授の一節が目に止まりました。政治屋は次の選挙のことを考え、政治家は次の世代を考える。実にうまい、痛烈な表現であります。が、しかし、我々お坊さんだって同じです。自分を肥やすばかりの宗教家なのか、世の人のためにある宗教家なのか。そして、すべての人にいえるでしょう。ホンモノなのか、ニセモノではないだけでホンモノでもないのか。Kさんが、今は亡くなったお母さんによく言われたそうです。「玄関は、家族の顔だ」と。そう言って、はきものをそろえるまで、家にあがらせてもらえなかった、と私に話してくれました。 大げさな理想を唱えることはありません。自らの脚下(あしもと)に眼を向けて、自分の人生が本物であるかどうか、自分の生活が本物であるかどうかを考えましょう。彼岸は、あなたのあしもとにあるのです。


「欲深き人って誰のこと?」


欲深き 人の心と ふる雪は つもるにつけて 道をうしなう 冬になり雪が降りつもると、どこに道があるのかわからなくなる。これと同じように、人間の欲望が深くなればなるほど、自ら生きる道をも見失うという意味の歌です。 戦後五十年も過ぎ、随分と私たちの生活は変わりました。洗濯板からスイッチひとつで脱水まで終わってしまう便利な洗濯機。東京オリンピックのころに普及したテレビは、どんどん大型化し、冷蔵庫も今やビール瓶が十六本も入るようなものが売られています。 限りなく豊かに、限りなく便利に、それが人間の幸せなんだと思いこんで生きてきたのは事実です。その結果、私たちは心のブレーキを忘れ、富みや名誉に心を奪われてしまいさまざまな問題を引き起こし、しばしばマスコミをにぎわしてきました。道元禅師のお示しになられた『学道用心集(がくどうようじんしゅう)』のなかに「名利(みょうり)をなげうたずんば、いまだ発心と称せず」とあります。名利とは、名誉と利欲のことですから、名誉欲や金銭欲にとらわれているうちは、心を起したとはいえない。つまり仏道を修行しているとはいえないし、真実の人生を歩んでいるとはいえないぞと、厳しく、しかも親切に教えられておられます。 欲深き心は道を失い、名誉欲や金銭欲だけで生きていると、値打ちのない、おそまつな人生になることを、まず自らがしっかりと学ぶべきなのです。


「折り込み広告を再利用した恩師の手紙」


学生のころ私は、下宿することもままならず、四年間を駒沢大学の学生寮で過ごしました。そこは、永平寺や總持寺のような修行道場ではありませんが、それに準ずる生活を毎日送っており、在家から仏門に入った私にとって大変に刺激的であり、また、実り多き時代でもありました。 ところで、当時この寮の寮長であった恩師松本擁親(ようしん)先生は「宿なし興道(こうどう)」といわれた近代を代表する禅の指導者、沢木興道(さわきこうどう)老師のお弟子さまで、そのユニークなお人柄には大変親しみを感じたものです。 平素のご無沙汰を恥じながら、昨年の夏、恩師に暑中見舞いをさし上げましたところ、早速にお礼のお手紙を頂戴しました。ところが、私はそのお手紙を開いて驚きました。懐かしい恩師からのお手紙は、水色や黄色、うす緑色の短冊にしたためられており、裏返せば、それらは新聞の折り込み広告を再利用したものであったのです。私は自らを恥じました。業者や自治体に頼る前に、自らできることがまだまだあったのです。 今、曹洞宗では地球環境を守る全曹洞宗の運動「グリーンプラン」として、仏祖(ぶっそ)の示された「少欲知足(しょうよくちそく)」「欲(よく)を抑(おさ)え、足(た)るを知(し)る」という教えの実践を推し薦めています。 かって、私たち日本人は経済第一主義で歩んできました。そのため、大量消費、大量廃棄が美徳のように歌われ、環境破壊の大きな要因を抱きかかえることになりました。 折り込み広告を利用した恩師からのお手紙、その数枚の色とりどりの美しい短冊は、私たちに大切な事を語りかけています。


「お電話さん」


これは、私の恩師の言葉です。 お寺の落慶記念法要のあとで、恩師に記念のお説教をお願いしました。お忙しい中、しかも遠路わざわざお越しいただくということで、家内と話し合って近くのお店でおいしい料理をつくっていただく事になりました。 ところが、いよいよ食事をという時に恩師が「お電話さん」と一言いわれたのです。私はその時、その意味がわからなかったのです。 あとでよく考えてみると、ご馳走という字は「馬が駆け走る」という意味で、自らの手足を動かしておもてなしをすることがご馳走であり、電話で頼んで取り寄せたご馳走は、ご馳走ではなく、お電話さんだったのです。 お金をかけてとりよせなくとも、あなたたちの手作りの料理でいいのだという、思いやりの一言でしたが、私は今もこの一言を重く受け止めています。 道元禅師が中国に渡られ、天童寺でご修行されていた時のことです。 台所の責任者であり、年齢は68歳にもなる和尚さんが、炎天下で汗をふきふきシイタケを干していました。 道元禅師は、そのお姿を見かねて、「なぜ若い修行僧をお使いにならないのですか?」と尋ねました。すると和尚さんは「他はこれ吾にあらず」と即座に答えられました。つまり、他人がやったのでは私がしたことにならない、ということなのです。 サラリーマン川柳に、こんな作品がありました。「やってみろ 言うなら お手本してみせろ」いつの時代でも、大切なのは実践、身をもって行じる事です。「お電話さん」は生涯忘れることの出来ない、恩師からの大切な大切なプレゼントです。


「特長、手足がないこと」


先天性四肢切断(ししせつだん)という、生まれつき手と足が無い状態で生まれた乙(おと)武洋匡(たけ ひろただ)さん。彼が、現在二十三才の若さで自分の生き様をつづった、『五体(ごたい)不満足(ふまんぞく)』という本が、三百万部を越える大ベストセラーになりました。 私は、不思議なことに坐禅会員のHさんと檀家のNさんのお二人に同じ本を薦められ、この『五体不満足』を読むことになりました。久しぶりの大感激でした。 彼が生まれて、一ヶ月後、ようやく母と子の対面が許されました。両手両足のない我が子と母親が対面する。その時、母親の口をついて出た言葉は、「かわいい!」という喜びの言葉でした。驚きでもなければ悲しみでもない、心からの喜びの声だったのです。 第一印象は、とても大切です。「かわいい」といって抱きしめた母親の心によって、乙武さんは、障害を障害ともしない大きな勇気と希望を勝ち得たのです。 「特長、手足がないこと」。彼は、自己紹介の時、そう書きます。「ボクの優れた部分は、ボクに手足がないこと。ボクには、人に負けないものがある。それは、手足がないこと。」手足のないことを自分の長所と受け止める、何とすごい心の目ざめでしょう。 彼の生き方が、また素晴らしいのです。中学の時、バスケットボール部に入り、高校では、アメリカンフットボールで活躍しました。一人の人間として生きている。障害者には、できないことがある一方、障害者にしかできないこともあるはずだ。乙武洋匡にしかできないことは、何だろうか、と実に明るく強く生きています。 人は、覚(めざ)めによって生き方が違ってきます。乙武さんの生き方は、「人間の尊さは、その人の生き方によって決まる」という釈尊のみ教えそのものではないでしょうか。私は、彼に心から大きな拍手を送りたいと思いました。


「人間のために咲いてる花じゃない」


「人間のために咲いてる花じゃない」。 一昨年の春、 毎日新聞万能川柳の欄で見つけた久喜市の宮本佳則さんのうたである。 すべてを人間中心に考えている私達の思いに、 きびしく反省を促すうたである。  「豊かさや便利さが幸せか」  一昨年の暮れ、 地球温暖化防止京都会議が開かれた。 それぞれの国のかけひきもむなしく、 二酸化炭素排出量削減の比率を統一することのできないまま幕をおろした。 しかし、 この会議が開かれたこと自体、 世界にとって大きな第一歩であったと思えなくはない。  過去一万年間、 地球の平均温度は十五度であった。 それがこの数十年間にめまぐるしく上昇の一途をたどっている。 その影響の一つとして南極の氷が溶け始めた。 十分の一溶けたら世界中の海が七メートルも高くなるという。 現在私達が生活している大地のほとんどが海の下へと沈む。  酸性雨の問題もまた大きな危険性をはらんでいる。 四千六百年前に造られたスフィンクスが急にいたみだした。 松は枯れ、 地球全体が糖尿病のようになって活性力が失われていく。 またオゾン層破壊によって紫外線が増え皮膚癌がふえてきた。 オーストラリアやニュージーランド、 南アフリカ等の国々では、 皮膚癌の患者数が十年前の十倍にまでなっている。 車や室内クーラー、 冷蔵庫などに使っているフロンガスという人間が造りだした物質は、 四億年もの長い時間をかけて形成されたオゾン層をわずか三十年でこわしてしまった。 十三年前南極の上空にオゾンホールができたと発表され、 一昨年の秋には北海道の上空にオゾンホールが広がっていると発表された。 次はお互いの家の上だろう。  実は、 奈良の私が住職している寺に、 「チャコ」 という名のかわいらしい猫がいる。 三年前の夏、 このチャコの両耳がただれた。 近くの獣医さんにみてもらったら紫外線による扁平上皮癌だという。 幸か不幸か内臓への転移は見つからなかった。 あれから二年半、 元気にかける彼女には、 もう耳はない。 これらの温暖化の問題、 酸性雨の問題、 オゾン層破壊の問題やダイオキシンの問題の原因はいったい何だろうか。 はたして、 その解決の道はあるのだろうか。 戦後五十数年、 私達の生活は天と地ほど変わりました。 幼い頃洗濯板でゴシゴシやっていたが、 今は洗濯機にほうりこむだけである。 ビール瓶が十六本も入る大型の冷蔵庫の宣伝を見て驚いた。 すべてが、 より豊かにより便利にという方向に動いていることは確かだ。 豊かさや便利さが幸せと考えているが、 この豊かさや便利さの追求の裏で、 確実に地球はむしばまれ、 環境破壊をうみ出していることの事実を私達は忘れてはならない。


「自己をならう」


道元禅師の 『正法眼蔵、 現成公案』 の巻に 「仏道をならふといふは自己をならふなり」 とある。 仏の道を修行するということは、 実は自分自身の足元(あしもと)を見つめることから始まる。 かのソクラテスの有名な言葉に 「汝自身を知れ」 とあるが、 洋の東西を問わず大事なことは皆同じである。 ところが、 そこから先が違ってくる。 道元禅師は 「自己をならふといふは自己を忘るるなり」 とくる。 自己をならうというと、 一般的には自分を対称化して、 ああでもないこうでもないと吟味することのようにとらえてみたり、 自分の性格や心理状態を研究したり、 血液型を分析することが、 自己をならうということだと考えてしまいがちである。 ところが 「自己をならふといふは自己をわするるなり」。 自分を考えることではない、 自分を捨てよと示されている。 自分を大事に考える気持ち、 これは誰にでもあります。 我執執着です。 つまり自分を忘れるということは 「俺が」 という我執を捨ててしまえということ。 その小さな我 「俺が」 の我執がとりはらわれて、 大きな我、 宇宙の真実と一体になる。 宇宙の真実と一体になった時、 自分のいのちも他のいのちも実は違った存在ではなかった。 共生きの一つのいのちであったことに気づく。  仏教では神と我というような二次的な見方をしない。 相対的な見方をしないのです。 よくお経の中に一如とか平等という文字が出てくる。 皆さんがよくお読みになる 『般若心経』 の中に、 「色即是空、 空即是色」 とある。 即是はイコールだから、 色=空・空=色となり、 現実の迷いの世界と理想とする悟りの世界は、 少しも違わないと説いてある。


「中学生でリューマチを患う」


私は十三歳の時リューマチで苦しんだ。 医者もだめ鍼灸もだめ、 日に三合の酒で飲むリューマチ特効の漢方薬があり校長先生の許可を得てしばらく続けたが効果なし。 最後に出羽三山の行者奥山宗峰先生に百日の加持 (指圧) を頂いて、 直径三十センチ以上もある超特大のできもの (瘍:よう) が背中にできて、 それが治ると同時に、 リューマチの痛みがうそのように消えた。 今ではリューマチ大菩薩のお導きであったと仏縁を頂いたことに感謝している。



「慕古のこころ」


今から二千四百八十四年前、 インドのクシナガラで入滅涅槃されたお釈迦様は、 その最後に 『八大人覚』 の教えを説かれた。 この八ツのめざめの道に、 少欲、 知足、 不戯論がある。 欲を少なくし足るを知れ。 これは人生のブレーキです。 不戯論は分別を離れよということ。 この教えこそ、 人類の未来を正しく導き、 地球環境を守る根本の教えである。  更に特筆すべきことは、 今から七百五十年前、 わが道元禅師さまが、 お釈迦さまと同じく 『正法眼蔵八大人覚』 を最後にお説きになられた事実である。 このことは日本の仏教史上道元禅師さまただお一人である。 正に仏祖のおもいを今ここに、 私達一人一人がこの原点に立ち帰らなければならない。


「さとりて分別を離れよ」


その『正法眼蔵八大人覚』の中の 「不戯論」 の項に、 「証りて分別を離れるを不戯論と名づく」 と説かれている。  私達の人生は常に損か得か、 善か悪か、 苦か楽か、 明か暗か、 優か劣か、 プラスかマイナスかと何ごとも比較と分別にふりまわされている。 ところが、 「人生あざなえる縄の如し」 の諺や、 良寛さまが貞心尼に贈った歌として有名な 「裏をみせ表をみせて散るもみじ」 の歌のように、 プラスとマイナスが入り混じっているのが人生の実相である。  私にも長所短所がある。 プラスとマイナスの両面を持っている。 そして時にはプラスがマイナスになりマイナスの面がプラスの面になることもある。 「天は二物を与えず」 という諺もある。 でもいつの間にか無常の風が吹いて最後の時を迎える。 人間はその五秒前になってやっと、 「証りて分別を離れよ」 という道元禅師さまのみ教えを一瞬味わうことになる。 二つそろって良いことはないと悟るまでには月日がかかる。 わかりかけたらこの身の終わり、 ほんに浮き世はままならん。  「いとう心なくねがう心なく 」  算数の方程式に加乗四段の方程式がある。 (+) × (+) = (+)・(+) × (-)= (-)・(-) × (+) = (-)・(-) × (-) = (+)という方程式である。 私はこれを人生の方程式と名づけている。 プラスもマイナスもあるのが人生。 マイナスになった時に、 このマイナスが人生の糧だ、 学習の場だと受けとめていく。 (-) × (-) = (+) を実践してみる。 マイナスがそのままプラスに転換される。  道元禅師さまの 『正法眼蔵、 生死の巻』 に、 「仏となるにいとやすきみちあり (中略) よろずをいとうこころなく、 ねがうこころなく (中略) これを仏となづく」 とある。 仏となるに簡単な方法がある。 すべてのことをいとわず、 ねがわずに生きていきなさい。 来るものはくる、 逃げることはできないと覚悟して生きよということである。 曹洞宗の名の源になっている中国の祖師、 洞山大師さまに若き修行僧が問うた。 「寒さや暑さはどのようにして避ければよろしいのか」 と。 洞山大師さまは 「無寒暑の所に向かって去れ」 と答えた。 若い修行僧は 「無寒暑のところ暑くも寒くもないところはどこにありますか」 と更に尋ねた。 最後の洞山大師さまの答えがすごい。 「寒い時には寒さの中に、 暑い時には暑さの中に、 あなた自身を投げ入れよ」 であった。 私達は今、 この勝手気儘な欲の心にふりまわされた私達の生き方そのものを反省しなければならない。


「お父さんお先に頂きます」


五月の第二日曜日は、母の日でした。この日は、デパートや花屋の店先に生まれたばかりの赤ちゃんを象徴するような真っ赤なカーネーションが毎年並びます。そして、それらの花は、子どもたちの手を介して、日頃の感謝の気持ちとともに、世の母親たちのもとへと 贈られていくのです。更に、六月の第三日曜日は、父の日です。この両親への感謝の催しに合わせ、家族のあり方を考えてみましょう。先日、地域の青少年補導委員会の席で、ある方から、こんな話が出ました。ある家族の夕食のおり、食事の前に手を合わせて、「お父さん、お先に頂きます」といってから、子どもに食事をさせるお母さんの話でした。帰りの遅い父親をおいての夕食ですから、なるほどもっともなことなのですが、なかなかに気づけないことです。その委員の方も、この話をした後、「私も、もう少し早くに、この話を聞けば良かったなと思っているの」と、つぶやきましたが、私も含めて、一同うなずくことでした。 一昔前には、「父親から頂くのは、ゲンコツだけだった。」というような話もあります。しかし、その中においても大切な感謝の心やお互いの理解の気持ちは伝わっていたに違いありません。「お父さん、お先に頂きます」といわれた父親は、幸せです。が、そのことをいえる母親や子どもたちも幸せであるといえましょう。  合掌していうこの一句の重み。大切さ。身近な感謝の中にこそ、人間教育の原点があり、仏教徒の生き方であることを学び取って生きましょう。


「2000年は脚下照顧(きゃっかしょうこ)の年」


「月に立つ科学の進歩に驚けど 仏の智慧の開発に めざめる人の少なさよ  忘れちゃいやよ 脚下照顧 この歌は、アポロ宇宙船が月面に到着したときに作った自作の歌です。振り返ってみるとすでに三十年近い歳月が流れていました。人類が初めて月の世界に到着したその瞬間は、劇的で感動の一時でした。でもそのとき、私は、その感動とは、逆に、私たちが一番身近な、私たちの足下を見つめ直すことを忘れているのではないかという疑問を持ちながら、この歌を作ったのでした。長い長い地球人類の歴史の中で、この五十年ほど大きな変化をみた時代はなかったのです。 石油エネルギー、核エネルギーの開発などによって、全てが豊かで便利になったようです。でもその結果、オゾン層が破壊され、温暖化、酸性雨、ダイオキシン等の問題がわき上がってきました。地球の環境が止めどもなく悪化してしまいました。人間の欲望には限りがないのです。 昔のことわざに「人酒(ひとさけ)を飲む、酒酒(さけさけ)を飲む、酒人(さけひと)を飲む」とありました。最初は人が酒を飲み始めるのですが、仕舞いには、酒が人をのんでしまうのです。私たちが心のブレーキを忘れて、豊かさや便利さを追い求めて行くならば、全てが機械化し、最後は機械に人間が使われてしまうのではないでしょうか。 脚下照顧とは脚下を照顧せよ、つまり足下をよく見なさい、という意味です。 今年は、道元禅師ご生誕八百年の年でもあります。道元禅師のお言葉に「仏道は脚跟下(きゃくこんか)なり」とあります。仏の道は私の足下にある、あなたの足下にあると正しく受け止めてまいりましょう。

副住職法話

平等寺副住職 丸子孝仁

 

「最上の勝利者」

今から2,500年前に、お釈迦様は話されました。「戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。」自分に克つとは、どういうことなのでしょうか?文化人類学者の上田紀行先生から、人類は今から6万年前に初めて埋葬を行い、死と向かい合ったこと、死ぬことが分かった人類は、自分たちが生きていることも分かったとお聞きしました。イエスは進むべき道を求め40日間砂漠に行きました。マホメッドも神の指導を仰ぐ為、洞窟に入りました。お釈迦様は6年間ほとんど飲まず食わずに修行したと伝えられます。私達の生き方をしめす宗教も、苦しみや死と向き合った時に生まれたのです。今、私達は、毎日のようにマスコミで報道される殺人事件ばかりでなく、自分の周りで起きる不幸な出来事でさえも、すべて他人のせいにするような生き方をしているのではないでしょうか?それを他人事として見過ごしているかぎり、同じ過ちを繰り返していくのです。苦しんだ人は、心の痛みが分かるから、人にやさしくなれるといいます。お釈迦様は坐禅をして、お悟りを開かれ、40年間、私達がいかに生きるかを話されました。坐禅をしますと、何かそわそわして落ち着かない、浮き足立った自分の心が、静かに整ってきます。何が来ても決して動じない、振り回されない安心感に満たされます。あれも欲しい、これも欲しいと走り回っていたのが、心を乱してまで手に入れる必要のあるものは、ないと考えるようになります。安心できることを、自分の外に求めなくても、自分の中に満ちて、これ以上ないほどに充実してきます。忙しい時は、自分が呼吸していることさえも分かりません。静かに心を整え、静寂に包まれた時に、呼吸をして、生きている自分がみえてきます。最上の勝利者とは、どんな時でも自分の心を整えることができる人のことです。道元禅師様は、食べることも寝ることも、すべてが修行だと話されました。今、私達が生きていることを心の底から実感できたとき、自分だけでなく、他人をも大切にできるのです。

「お父さんは偉い人」

毎月、お参りをさせて頂いている、あるお檀家さまのお話です。お仏壇での読経が終わってから、おばあさんが、「私のお父さんは偉い人だった」と話し始めました。「まだ妹が生まれて1ヶ月も経たない頃、家に帰るとお母さんが寝ていた。いつも朝早くに畑に行って日が暮れるころに帰ってくるのに、なぜかお母さんが寝ている。どうやら体調をくずしたようだ。家は峠の上にあり、風がいつも吹き荒れるような場所だった。村には車もないので、籠で担いで遠い病院まで運んでもらっていた。だから、滅多に病院にも行けなかった。だんだん弱っていく母は乳が出なくなったので、昼は私達兄弟で、お寺の奥さんに母乳をもらいに行った。お父さんは、畑仕事から帰ってきてから、夜に米をすり潰して煮たものを妹に飲ませた。冷蔵庫もないので、米のお汁はすぐに腐った。小さな妹は夜中に何度も泣く。家には暖房もなかった。寒い日は泣く度に、綿の入ったちゃんちゃんこを着て、その中に妹を入れて、夜も寝ないで、自分の肌で温めた。そんなお父さんの姿をみて、私達は育った。だから今の私があるのも、お父さんのおかげ。お父さんは、二番目に偉かった。」それじゃあ、一番偉い人は誰だったんですか?と私は聞きました。「妹は2歳ではしかにかかって亡くなった。そのはしかで、お母さんも亡くなった。お母さんがいなくなって、寂しかった私達と遊んでくれたのが、お寺の和尚さんだった。お寺に行くと、いつも満面の笑みで迎えてくれて、とてもやさしかった。だから一番偉いのはお寺の和尚さん、二番目に偉いのはお父さんだった。」おばあさんは毎日、お父さんの姿を思い出しながら、お仏壇に手を合わしています。み仏とご先祖の思いやりの心は、長い命の連なりの中に生き続けていくのです。

「お互いの垣根を超える」

私は過去に、いじめられたことがあります。私は空手の有段者でしたので手はだせませんでした。しかし、その人に対して憎悪の念を持ったことは間違いありません。今でこそ、お寺で空手の道場を持ち先生と呼ばれていますが、当時の私は空手を学ぶ一道場生にすぎませんでした。しかし、いつか空手の先生になって空手を教えたいという夢もあり、ここで手を出したら、今まで築き上げてきた夢を失うことになると思いました。私は、彼に手を出すことを断念し、その場から逃げ出しました。私は周りから、「なさけないなあ、何の為に空手やってたんや?」と言われました。私は、悔しさや悲しさで胸が張り裂けそうな思いで毎日を過ごしました。それから2年後、福井県大野市宝慶寺の堂長さんの取り計らいで、その人と再会し二泊三日の修行を共にすることになりました。過去の千仏、現在の千仏、未来の千仏の御名が記された「三千仏名経」の一仏ずつを唱えながら、五体投地を行います。三日目には肘も膝も、きしむように痛みました。本堂の畳に打ちつける額からは血が流れ、まるで三つ目の目ができたかのようになりました。この修行をしたのは、私とその人だけではありませんでした。堂長さんはじめ、その時、宝慶寺にいらっしゃった全員が一緒につとめてくださったのです。その修行を終えた後、その人は私に「とんでもないことをしました」と言い、私はその人に「私の性格が悪かったからです」と答えました。長い間のわだかまりがとけて、私は嬉しさのあまり、思わずその人を肩に担ぎ、その辺を走り回りました。いじめや差別は、あってはならないことです。二度と繰り返さないように自らの心を深くみつめなければなりません。しかし、いじめや差別をした人を責め続けても何の解決にもなりません。共にかけがえのない命をもつ人間であることを認め合った時、お互いの垣根を超えることができるのです。

「韓信の股くぐり」

私は、いじめにあったことがあります。「穴があったら入りたい」という思いで毎日を過ごしていました。その時の私に、福井県大野市宝慶寺の堂長さんが「韓信の股くぐり」という話をして、励ましてくれました。『漢王朝統一前、中国に韓信という人がいた。幼いときに両親を失ったが、貧しくとも親より代々伝わる立派な剣のみを持ち、戦国乱立する荒れた中国を統一しようと志す、一人の若者であった。韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみろ!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。その後も韓信は、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。のちに漢王朝の建国皇帝劉邦に認められて大将軍となり、劉邦が天下を取る過程で勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。大将軍となった韓信は、まず初めに自分を馬鹿にした若者たちに会いに行き、「あなたの侮辱に比べれば何も大したことはなかった」と語り、一生その若者たちの世話をしたそうだ。』股をくぐった苦しみが、韓信を育てたのです。人生、楽しいことばかりではありません。つらいこと、しんどいこと、腹が立つこと、いっぱいあります。ですが、それをバネにして、がんばってください。そして、ピンチをチャンスに変えるのです。

「心のこもったおもてなし」

毎月、お参りをさせて頂いている、ある御檀家さまのお話です。お寺からは一時間以上もかかる、遠方の檀家さんで私はいつも楽しい時を過ごさせて頂きました。私がお参りに行くと、必ずお婆ちゃんが玄関で出迎えてくれます。隅々まで掃除の行き届いた御仏壇に向かってお経を唱える私の真後ろに正座され、とても上手にお経を唱えます。お経を読み終わると、御仏壇の前に置かれた小さなテーブルでお茶を頂きます。しばらくお話していると、二階からお爺ちゃんが降りてきて戦時中の辛かった話を聞かせてくれます。お爺ちゃんの失敗談も交えたユーモア溢れるお話は途切れることもなく一時間を超えることもしばしばでした。時に法事等が重なって忙しい私が、お爺ちゃんの話を途中でさえぎるように急いでいることを伝え挨拶して席を立つと、何とも不満そうな寂しい顔でお別れしました。そんなある日のこと、玄関のチャイムを鳴らしても扉をノックしてもお婆ちゃんが現れません。すると、お家の中から、「どうぞ中へ入って下さい。」という、かすれるような小さな声を聞いて上がってみますと御仏壇の前にベットが置いてあって、そこでお婆ちゃんが横になっていました。お婆ちゃんはどこかでつまずいて骨折して、歩くことも出来なくなっていました。御仏壇とベットに挟まれた私は、かすれるようなお婆ちゃんのお経を聞き取りながら、お婆ちゃんと一緒に唱えました。何ヶ月かして、お婆ちゃんは亡くなられました。その後、残されたお爺ちゃんは大変だったと思います。それでもお爺ちゃんは、お湯を沸かしお茶を入れ私を迎えてくれました。私がお参りの時にできることは、お手洗いの掃除ぐらいでした。お婆ちゃんが亡くなられてから半年後にお爺ちゃんも亡くなられました。お爺ちゃんとお婆ちゃんの年忌法要の際、涙で声も出ずお経も唱えられませんでした。お爺ちゃんとお婆ちゃんがして下さった、できる範囲での精一杯のおもてなしには手を合わせずにはおれません。目を閉じて思い返せば、たくさんの方から数えきれないおもてなしを頂いてきました。そこに思いをはせた時、恩人たちが微笑みかけているのです。

「さつま芋が教えてくれた」

十数年前まで、私にとって「人権」は、数ある学習項目の中の一つにすぎませんでした。人権学習会に自ら足を運ぶこともなく、他人事のように「人権」から目をそらしていたと思います。ある日、私はいじめに遭いました。私はその時、自分自身が無力であることに絶望し、どうすることもできない苦しい立場が、この社会にあることを実感しました。それからの十数年間は、もがき苦しむ自分自身が救われんがための、人権学習であったと思います。岡山県の東部、日本のエーゲ海といわれる牛窓の近くに国立ハンセン病療養所「長島愛生園」があります。「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議」主催の人権学習会をきっかけに石田雅男さんと奥さんの懐子さんとお付き合いをさせて頂くようになりました。石田さんは十歳の時にハンセン病を患い、愛生園に連れてこられました。到着してから裸にされて番号札を持って写真撮影の後、十日間はクレゾールという消毒液のお風呂に入れられたそうです。まだ幼い石田さんは、「殺されてしまうのでは・・・」と小さな身体が恐怖に震えました。まだハンセン病の薬が普及されていない当時、一日一本と決められていた松ヤニのようなものが入った大きな注射を、早く家に帰って両親に会いたい思いから看護師さんにお願いして二本打たれました。異物が注入された腕やお尻は当然のように大きく腫れ上がりました。入所して間もない頃、石田さんの大好きだった巻き寿司を持って両親が面会に来られました。石田さんが右手で巻き寿司を食べている間、左手に薩摩芋を握りしめている姿を見て、お父さんが不思議に思って聞きました。「雅男、そのさつま芋はどうしたんだ?」すると石田さんは、「これはボクの晩ご飯だ」と答えたそうです。当時、愛生園では昼ご飯はじゃが芋一個、晩ご飯はさつま芋一個の代用食の日々でしたので、その芋をその辺に置いたりしますと誰かに取られます。それで石田さんは、左手にさつま芋を握りしめていたのです。国の施設とは言いながら、入所者の人達は、「お前らは国家のごくつぶしだ、ざしき豚だ」と罵られ、友人でさえも、「このまま故郷にも帰れず、生きていても何の役にもたたない、せめて魚のえさにでもなれば」と海に投身自殺しました。また、結婚するにあたっては子供が生まれないように断種手術をさせられ、もし生まれてきた時には、その場で殺されました。治らない病気、伝染する怖い病気、そして不浄で汚い患者として社会から排除され、徹底隔離のもとで非人道的な扱いをされながら、石田さんは何時死んでもいい、早く死にたいと望むようになり、自暴自棄の生き方をされていました。それから年月が流れ、やっと社会的にも、ハンセン病が感染力の非常に弱い病気で、まずうつることもなく、プロミンという薬で100%治るということが認識されるようになり外出も自由に出来るようになりましたが、お父さんはすでに亡くなられ、お母さんが大阪で暮らしていることを知り、会いに行かれました。その時に、こういう話を聞いたのです。「雅男、私達がお前のところに初めて面会に行った時、お前は夢中で巻き寿司を食べながら大事そうにさつま芋を持っていた。あれから父さんは、『わしらの子があのような代用食を食べているのに、わしらも食事を変えんといかん』そう言って芋を長い間、飯の代わりに食べたんやで」石田さんは大きなショックを覚えました。どうしてこんな人間に生まれてきたのか、親を怨み、世の中を怨んで投げやりのような生き方しかできなかったが、私のことをこんなに思い、愛して見守ってくれた父がいた、そして母がいる・・・。石田さんはじんと胸が熱くなると同時に今までの生きざまの何と愚かなことかと、反省すると共に亡き父に頭を下げました。そしてこれからは、一生懸命に生きなければいけないと誓われました。人と人との絆が人権であります。私は石田さんから目には見えないところにも絆があることを教わりました。因縁に恵まれて生かされ生きている私達が、目には見えない心の絆を見失ったとき、悩み苦しみをつくり出しているのではないのでしょうか。心の絆が見えたとき、人は生きがいと幸福を見出せるのです。

「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議(奈宗連)の一員として長島愛生園桜植樹に参加して」

1、「奈良県宗教者同和教育推進会議」の結成
 今から40年前、宗教に関する差別事件、たとえば差別戒名や差別にまつわる文書、あるいは第3回世界宗教者平和会議における差別発言事件(1979年)等、宗教者自身による差別発言などが新聞等で指摘され報道された。奈良県においても例外ではなかった。宗教の社会的影響力も大きく、宗教者自身が、さらに信者・檀信徒・氏子をも含め、差別撤廃に向けての取組を始めなければならなかった。そこで1983年1月11日、数名の宗教者・行政関係者・研究活動家の集まりの中で、宗教者自身がまず「部落問題」について研究研鑽を積む必要があることが議論となり、意見の一致を見、以後数回にわたる宗教者による懇談会で意見交換が行われた。その懇談会の中で、宗教・教団の別を問わず、一人でも多くの人たちに呼びかけ、宗教者自身による「同和教育推進」のための組織を作ってはとの話し合いがまとまり、1984年4月12日、県内の宗教者が結集し、「奈良県宗教者同和教育推進会議」(略称「奈宗同」)が結成された。この「推進会議」は、加盟教団の幹部のみの研修・取組に終わるというのではなく、一人ひとりの宗教者の日常の布教・教化の活動の中で、積極的な取り組みが可能となるものにすることを主な目的とした。
 結成20周年を迎えた2004年に会の名称を「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議」(略称「奈宗連」)と改称し、宗教者として「すべての差別をなくす」ために活動している。

2、「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議」の取組~長島愛生園桜植樹を中心として~
 結成以来、それぞれの教義や教えの違いを乗り越え、差別のない社会をめざしての活動が36年間続けられてきた。現在、29教団が加盟しており、真宗大谷派が議長教団である。
 主な活動として、年2回の講演会、年1回の宿泊研修会、現地研修会等を開催し、部落問題をはじめハンセン病問題、障害者差別問題、民族差別問題等「あらゆる差別をなくす」ことをめざし、取り組んでいる。現地研修会としては、県内の「部落史めぐり」フィールドワークを行っている。また広報誌「奈宗連」による情報提供と啓発を行っている。
 近年、活動の重点の一つとして「ハンセン病問題」に取り組んできた。ハンセン病は細菌によって神経や皮膚が侵される病気だが、感染力が弱いことは、ハンセン病療養所で働いていた人が今までの90年の中で一人も感染したことがないということからも分かる。1947年頃に日本に特効薬プロミンが入り、今では治療法も確立されていて、完全に治る病気である。よって、全国の療養所入所者の方々は、患者ではなく回復者である。
 過去には、ハンセン病は「悪業の報い」の典型的な病気として「悪しき業論」が説かれ、「業病」「天刑病」「遺伝病」などとして仏教教説が差別的偏見を増幅してきた。寺院は地域社会の中で大きな影響力を持つため、差別が拡散し、檀信徒の親から子へと再生産されることになる。偏見・差別の思想の増幅に宗教者や宗教団体が深くかかわりあっていただけでなく、戦前・戦中を通じ、むしろ熱心に、あるいは積極的に慰安教化を行ってきたといわなければならない。
 国の隔離政策は、法律第11号「癩予防ニ関スル件」(1907年)に始まり、全国に療養所を設け、寺社仏閣などに浮浪する人のうちハンセン病患者のみ収容を始めた。さらに「癩予防法」(1931年)そして「らい予防法」(1953年)へと法律が強化されたことにより、在宅の患者を含む全患者を療養所に隔離収容し、患者を見つけ次第、警察や保健所に密告していった。こうした隔離政策が、ハンセン病やかつて患者であった人びと、そして家族への偏見や差別を助長し、現在においてもなお払拭されていない現状にある。
 「差別をなくす奈良県宗教者連帯会議」は、2001年3月、岡山県にある邑久光明園と長島愛生園を初めて訪ねた。元愛生園自治会長の石田雅男さんから講演をお聞きし、園内見学と交流会を持った。翌年の2002年11月、さらに研修を深めようと、秋の「奈宗連」講演会に石田雅男さんご夫妻をお招きし、映画「人間回復の橋、心の架け橋となれ」を上映し、「人間として生きる~ハンセン病とわたし~」というテーマでお話しいただいた。2005年2月に「奈宗連」宿泊研修会に再度お招きし、宇陀市内「美榛苑」で一泊して鍋を食べた時に、「こんな時代が来ると思わなんだ」と話された。その皆で鍋を食べるということが特別なことであること、当たり前のことが当たり前でない世界があることに気付かされた。サングラスの奥に、壮絶な人生を乗り越えられてきた眩しい光を見た気がした。それ以来今日まで、長島愛生園を幾度となく訪問したり、奈良の地に来ていただいたりという交流を積み重ねてきた。
入所者のみなさまからお聞きしたことは、出来る限りノートにメモした。ある方は、「ハンセン病の話をしていると、だんだん暗くなってくる。笑いが出ることはない。嫌なことはあっても良かったなぁと思えることは一つもない。」「同和に関係する人たちが来て話をする。我々の話を聞いて、その人たちが『私たちも偏見や差別を受けたので辛さがよく分かります』という話をされる。しかし、その時に言う。あなた方が受けた差別と我々の差別は違う。あなた方は周りから差別を受けた。我々は最も身近な親兄弟家族から差別を受けた」と話された。入所者のみなさまの精神的な辛さは、どんなに温かい言葉であっても癒されることはないのではないかと感じたことが何度もあった。
入所者のみなさまとの交流の中で、長島愛生園には、以前はいたるところに桜が植えられて、入所者が来園者と手を携えてお花見を楽しんだり、桜の下でカラオケなどをしたことを伺った。しかし、開園時に植樹された多くの桜が樹齢を重ね、痛んだり枯れたりして、往年の華やかさがなくなってきていると残念がっておられた。

3、私たちにできること
 2008年6月に、私たちの手で桜を植えることができないだろうかと、長島愛生園を訪ね、自治会役員の方々の意見を伺ったり、桜植樹の場所を調査した。しかし、会議室では自治会役員と職員のみなさまから質問を浴びせられた。「潮風で桜は枯れてしまうのではないか?」「桜は虫がつくし、秋には葉が落ちる。誰がメンテナンスや掃除をするのか?」。私たちは返答に困ったが、当時の議長 河村先生が「すべて『奈宗連』が責任を持ってやります。」と答えられ桜植樹が始まった。最初は「奈宗連」が責任をもって行い、現在は園に管理をしていただいている。
 翌年に「長島愛生園開園80周年記念式典」を控えた2010年2月27、28日、第1次の桜植樹を行い、菴羅公園や愛生会館北側、歴史館西側などに植えた。事務局長として運転していたレンタカーをガードレールにぶつけて、地面に穴を掘る前に車に穴を開けたことは忘れられない。入所者の平均年齢が86歳を超えているので、将来咲くであろう小さな苗木を植えていては、高齢の入所者に桜の花を見ていただくことは出来ない。3m程の桜であれば、冬場に植樹すれば春には花を咲かせるので、3mの桜をトラックに固定して運んだ。桜を積んだトラックは高速道路の横風に揺らされるので、安全運転を心がけた。宗教者の手によって、桜の木から道具一式をトラックから降ろして、石が多い場所をスコップで一生懸命掘り、桜を植樹し杭を打ち込んで風で倒れないように固定した。
2011年3月1、2日に第2次桜植樹が行われた。その際、桜の名所で有名な吉野の金峯山寺蔵王堂の前に植えられていた「四本桜」の苗木5本が長島愛生園に寄贈され、私たちの手で植樹した。感激冷めやらぬ同年4月6,7日に、愛生園から17名の方をお迎えして、吉野山の旅館「太鼓判花夢花夢」にて「心の観桜会」を開催し、入所者の方たちと共に吉野山に桜を記念植樹した。二日目の早朝には金峯山寺を参拝し、講話を聞いて交流を深めた。
第3次桜植樹からは、毎年「歴史街道」沿いに桜植樹を実施した。第3次では収容桟橋跡から収容所(回春寮)までの道沿いに、第4次では監房の周辺に桜を植樹した。ハンセン病療養所には入り口(入所規定)があっても出口(退所規定)がない。1916年に所長に患者懲戒検束権が法文化され、この法律に伴い、愛生園開園と同時に監房は建設された。患者の犯罪行為と脱走を取り締まることを理由に24時間の監視体制が敷かれ、通常貨幣を禁止して園内通用券(金券)が用いられ、監房が設置されて刑務所化された。入所者は、家族から生活が苦しいこと、子どもが熱を出したことなどが記された手紙がくると心配で「帰らせてほしい」と願い出てもかなえられずに逃走するのだが、捕まえられて監房に入れられた。監房では、小さなくぐり戸を入ると、薄暗い中には歴のようなもの、家族のこと、何をしたくて逃走したかが、つらい叫びのように書かれていた。監房に入れられると、食事も満足に与えられず、外への散歩も治療も一切行われなかった。
 また、「奈宗連」は植樹と共に納骨堂での慰霊法要を行ってきた。これは、私たち宗教者が社会の中にハンセン病に対する差別意識を植えつけてきたことの懺悔と謝罪の法要でもある。1930年に第1号の国立療養所として 「長島愛生園」が開設されると同時に納骨堂建設が始められ、1932年には納骨堂が建立された。1931年には「癩予防法」を制定し、ハンセン病患者の全てを強制隔離収容しはじめた。当初より収容した患者を終生隔離し死んでさえも島から外へは出さない方針であったのである。納骨堂に納められる人も増え、老巧化も進み2002年に再新築された。愛生園の納骨堂に納められた入所者は3,600名になる。納骨堂の隣には水子地蔵が祀られている。ハンセン病療養所での一番の人権侵害は内縁の夫婦として認めてもらうために強制断種があったことだ。夫婦として一夜を過ごすのに個室はとってもらえず12畳に3組の夫婦が寝た。たくさんの若い男女がいたから男女関係があって当然だが、妊娠した女性は堕胎を強いられた。頭の毛が生えているような子どもを強制的に堕胎、うぶ声を聞いた後に殺されたこともあった。産んでも療養所内で子どもと一緒に暮らすことはできなかった。ここに納められた人々は療養所での生活において、強制労働や断種・堕胎を強いられるなど、人間としての尊厳を奪われて生きてきた。長島愛生園の資料館に入ると、壁に納骨堂のポスターが貼ってある。「考えてほしい。なぜ療養所に納骨堂が必要なのかを」という文言が記されている。「亡くなった後も骨になってからも、まだ差別を受けるのか」そういう思いがポスターから伝わってくる。全国の療養所の納骨堂には、今もなお故郷を奪われ、名前も奪われたまま、帰りたくても帰ることができない遺骨が納められている。
 このような状況で隔離される中で、入所者の方々は「なんで家族の中で自分だけが」ということで親を憎み、プロミンという薬が行き渡って、ハンセン病のらい菌というものが一切体中にない、移ることは一切ないということが分かっているのに、隔離の政策を続けた国を憎み、「もう俺の命なんかどうなってもええわ!」と自暴自棄になった方もいた。さらには、あまりの偏見と差別の辛さに崖から身を投げた方もいた。
2018年度は第9次桜植樹を行い、10年間で植樹したのは桜だけで100本以上、紅葉や松を合わせると200本以上になる。植樹後は面会宿泊所で泊めていただいて、夕食の際にみなさまと交流会を持った。特に桜の植樹は冬の時期なので、長島の海の幸や豚肉などの食材で鍋料理をして話に花を咲かせた。参加者のギターに合わせて歌ったり、入所者の方が作った一品をご馳走になったこともあった。交流会はいつも和気あいあいとした雰囲気で、最後には全員で記念撮影をして終わった。桜植樹や交流会で入所者のみなさまと親しくさせていただく中で、隔離された過酷な状況の中にあっても、スポーツや文化活動を通して青春を謳歌されたことを知り、療養所に通ってお話を聞くことが楽しくてたまらなくなった。
 私が事務局長をさせていただいた2014年、長島愛生園ですれ違う初対面の入所者が作務衣姿の私に、「あ~、あんた、桜を植えているんやろ?将来、世界遺産になって桜が咲いとるよ。私はその頃は亡くなっとるけどね。遺骨になっても納骨堂から感謝しとるよ」と笑顔で話された言葉は忘れられない。
 こうしたご縁の中で、2017年11月には「懸け橋長島・奈良を結ぶ会」と「奈宗連」が共催で、奈良県内各地で積み重ねられた「第33回架け橋美術展」(3日間)を東大寺総合文化センターで開催し、各地の回復者のみなさまと交流及び畑野研太郎元邑久光明園長さんの講演会を実施し、県民啓発にも取り組んだ。

4、結びにかえて
 2001年、かつてハンセン病患者であった方たちは「ハンセン病患者訴訟」裁判で勝利を勝ち取った。そして2019年6月28日、同じように差別を受けてきた元患者の家族による「ハンセン病家族国家賠償請求訴訟判決」に対して政府は控訴しないという異例の判断をした。しかし元患者の方々やそのご家族の名誉の回復はいまだ不十分である。90年という長きにわたる「らい予防法」だけにとどまらず、ハンセン病患者の方々を排除し、社会に恐怖を掻き立てるような間違った教えを広め、宗教者が加担してきたことを至心に懺悔しなくてはならない。
今からちょうど10年前、石田雅男さんは話された。「自分の一番辛い、情けないことを話すことが嫌になり、力がなくなっていくような、やる気が失せるような時もある。でも、今は違う。年を取って、足も痛い、腰も痛い。しかし、周りを見渡せば、様々な偏見、差別がある。自分もそれに負けることなく、過去を語ろうではないか。二度と同じ過ちを繰り返さないために語らなければならない。一つ釘をさしていることがある。過去のことを話しても過去にとらわれてはいけない。この先、残り少ない貴重な時間を過去にとらわれては失ってしまう。過去も大切だけれども、今を大切にしたい。」石田雅男さんも今年で84歳になられる。
長島愛生園桜植樹の10年間の交流は、今後も形を変えて続いていく。共に植樹した桜を通じて、明るい未来へと共に歩み続けたいと願う。

平等とは?

平等とは?

「サッダンマ(正法)たるべきダンマは人間間の平等を弘めてゆかねばならない」
「人は生まれながらにして不平等である。ある者は壮健である者は病弱である。ある者はより知能に恵まれある者は劣っている。ある者はより能力があり、ある者は乏しい。ある者は裕福で、ある者は貧しい。総ての者はいうところの生存競争に加わらざるをえない。生存競争においてもし不平等が競争原理であれば弱者は常に追いつめられる。このような不平等原理が人生の法則として認められていいのだろうか。
 ある者は適者生存説を基にそれを主張する。だが、適者が社会的観点から視て善なのだろうか?これについて恐らく誰も積極的な答えはできないだろう。この疑問の故に宗教は平等を説くのである。何故なら、善なるものが適者でなくとも生存できるようにするのが平等性だからである。社会が真に必要とするのは善なるものであって適者ではないのだ。宗教が平等を唱えるのは正にこのためである。これがブッダの考えであり、その故にブッダは平等を説かない宗教は宗教たるに値しないといったのである。人を悲しませることで己の幸せを得たり、自らを、あるいは、自他双方を嘆かせることで他人に幸せを与えたりする行為を推奨する宗教を信じられるだろうか。自らの幸せをも願いつつ他の幸せを図り、抑圧を許すまいとする宗教の方が優れていると思わないだろうか。このことをブッダは平等に反対するバラモンたちに厳しく問いつづけた。ブッダの宗教は人間の良き性から湧き出た全き義なのだ。(『ブッダとそのダンマ』B.R.アンベードカル師)

すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。(世界人権宣言第1条)


お釈迦さまの教え

生まれによって賤しい人となるのではない。
生まれによってバラモンとなるのではない。
行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
(『ブッダのことばースッタニパータ』中村元訳/岩波文庫)

どの方向に心でさがし求めてみても、
自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。
そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。
それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
(『ブッダ神々との対話ーサンユッタ・二カーヤ1』中村元訳/岩波文庫)


Engaged Buddhism=菩薩の道とは?

「自己の安心立命のためだけに引きこもるのでなく、同時に現代世界の状況そのものに深く関っていこうとする姿勢を持つ仏教実践、すなわち自己とかかわる一切とのつながりに気づき、そのかかわりを自己の生活そのものとして生きてゆかんとする仏教」(ティク・ナット・ハン師)

「おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむ」
「自未得度先度他」(発菩提心の巻)

「仏いわく ~行ずればすなわち証その中にあり~ と、未だかって~中略~行ぜずして証を得る者を聞くことを得ず」
「修証一等」(『学道用心集』道元禅師)

「戦争は最大の差別であり人権侵害である」(松本治一郎)