仏像紹介

釈迦如来真像(成道の釈迦))
Reproduction of true image of Buddha Bodhisattva お釈迦様がお悟りになられて後6年、釈迦国を訪れになられました。父である浄飯王は、仏陀となったお釈迦様の姿を見、画家に命じて絵を書かせました。(ロンドン博物館秘蔵)本堂の釈迦像は、丸子孝法老師が28歳の時はじめて模写されたものです。Reproduction of the image which is treasured in Museum of London.


釈迦如来真像(成道の釈迦)
三輪山古図にもとづき800年ぶりに再建された二重塔(釈迦堂)の本尊。丸子孝法住職が描いた釈尊41才画像をもとに仏師が彫ったもので、台座には釈迦八相図がみごとに彫刻されています。


仏舎利塔
鎌倉時代、奈良の春日大社より平等寺に移された仏舎利塔で、お釈迦様の仏舎利を納めたものです。寺宝として大切に守られてきました。


仏足石
お釈迦様亡き後、ストゥーパ(塔)と仏足石が信仰の中心になりました。三十二相のうちの七つの徳相が刻まれ、お釈迦様の教えが広まり人々に安らぎを与えることを意味しています。古くより、平等寺仏足石として有名です。


本尊十一面観世音菩薩
The principal image eleven-faced Kanzeon Bodhisattva.
当寺開山・聖徳太子が平和を祈願して御自ら作られた本尊。現在の本尊は素朴な尊顔や衣文の彫りから平安時代初期から中期頃に復元したものといわれています。左手に水瓶らしきものを持っていますが、当初は蓮の花が有った花瓶と考えられます。下半身に比べ、上半身と顔のバランスが大きいことから、平安時代以前の仏像の特徴をよく表しています。寛文、延宝(1661~1681)の頃の島津綱貴の書翰には当時の平等寺の全貌が記されており、その覚書の最初には「一、平等寺本堂 六間四面 屋根瓦葺 本尊 十一面観音秘仏聖徳太子御自作」と記されています。また、1771(明和8)年5月の三輪山平等寺の御朱印には中心に「本尊阿弥陀如来 三輪山平等寺」と書かれており、さらに1808(文化5)年に伊能忠敬が奈良を測量したあとに寺社を参詣し宝物を拝観した記録には「三輪山平等寺 眞言宗 開基聖徳太子 中興開山慶圓上人 本堂 六間四面 本尊 阿弥陀 安阿弥作」と記されています。時代によっては阿弥陀如来様が本尊とされ、十一面観音様は秘仏としてまつられていたのかもしれません。It is said that Kaisan Shotokutaishi made this statue by himself.


本尊前立十一面観世音菩薩像(復元)
江戸時代に性亮玄心(しょうりょうげんしん)により平等寺の遍照院が聖林寺に移されました。そして、明治の神仏分離令の際に、大御輪寺から本尊の十一面観音が聖林寺に移管されたと伝えられています。また、神仏分離令時の平等寺住職・覚信和尚の御子孫、勝井茂雄氏よりは、十一面観音様は廃仏毀釈の折に取り壊された本堂の瓦礫に埋もれて雨ざらしになっていたのを大八車に乗せて平等寺から聖林寺に運ばれたとも伝え聞いています。さらに、十一面観音様には光背がありましたが廃仏毀釈以前の平等寺本堂は昭和に再建した本堂よりも9m高く、光背も含めた十一面観音様がまつられる大きさであったので、廃仏毀釈前に光背を外して大御輪寺に移され、それから聖林寺へ運ばれたという説もあります。現住職の発願により、1982(昭和57)年に本堂が復興再建された折に聖林寺の倉本弘玄住職より十一面観音様に関する文化財の資料を頂き、文化財の専門家のご協力のもと、樹齢1500年の桧材により一木で復元されました。


三輪不動明王 (大日大聖不動明王)
伝大三輪寺遍照院開山・空海弘法大師ご自作 明治の廃仏毀釈以前は、不動堂に四体の不動明王が並んでいました。


波切不動明王
弘法大師空海の信仰されたお不動様で、人間の煩悩を断ち切る力を与えてくれます。


熱とり地蔵
吉野朝時代、僧善教が大和の熱病平癒を祈願して彫られたお地蔵様。熱病や、ありとあらゆる病魔を退散すると伝えられています。


十六羅漢像
十六羅漢とは、釈迦の命により、この世に長くいて正法を守り、衆生(しゅじょう)を導く16人の大阿羅漢のことです。平成22年4月に鎌倉の寺尾家から寄贈いただきました。


聖徳太子像
聖徳太子とお供の方、賊軍の大将綾葛が、太子に帰依している大変珍しいお像です。明治の廃仏毀釈で一度失われましたが昭和57年本堂再建の折に三輪の奥山家より還ってきました。


聖徳太子立像
奈良県シルクロード博覧会の年に、タイムカプセルを納めて建立されたブロンズ像です。平等寺の前身である大三輪寺をお開きになられた聖徳太子の在りし日のお姿をかいまみることができます


中興開山慶円禅観大和尚 (平安・鎌倉時代)
日本国の神仏両部を成して三輪流神道を起こした高僧。三輪清浄・一相平等なることを発願し、1204年三輪山平等寺と改めになられました。慶円さまは1140年にお生まれになりましたが、その時すでに眉間に琥珀色の肉が出ていて、お釈迦さまの白毫大丈夫の相のようであったと伝えられています。成人して自ら「三界は元より空なり、萬法は幻の如し、栄華の世相なんぞ常に保つべけんや」といわれたそうです。和州(奈良)の吉野の堯仁阿闍梨について修行し安倍寺で修行を重ね、三輪山遍照院にうつられ、1204年、差別のない平等の世の中を願求して『三輪山平等寺』と改号されたのです。慶円さまは、生まれつき慈悲の心あつく、すべての人を救う神仏のような思いをおもちのお方でありました。まだ夜もあけぬ朝、平等寺のみ仏にお供えするあかいの渓水を汲みにいかれた時、三輪明神が貴女の姿になって石上にあらわれ、慶円さまと問答をなさるのです。慶円さまが「あなたさまのお名前をおきかせ下さい」と尋ねると、貴女は、「この山の杉です」とお答えになり、自ら「おのづから いわきをおのが すがたにて かげはずかしき みむろやまかな」と詠ぜられ、御身を消されたといわれます。この31文字の和歌が平等寺のご詠歌として伝えられております。慶円さまは、仏教各宗のご開山と同格に、わが国最初の仏教史書「元亨釈書」(ゲンコウシャクショ)に出ている高僧で、そのご一代が明らかであります。三輪山平等寺中興の祖として、また三輪流神道の祖として、正法の興隆につくされた慶円さまは、1223年正月27日遷化され、84歳の尊いご一代に幕をおとされました。